やっとのことで民宿に辿り着き、僕は案内された部屋で座布団に座りボーっとしていた。
ただボーっとしていたというのは正確ではなくぼんやりと浮かんでくるのは彼女のことだ。
民宿に着くまでの間、彼女とはいろいろな話をした。
家族のことや僕の地元の話なんかをしているうちに彼女の話し方もくだけてきて民宿に着くころには友達と(彼女から見れば僕は弟らしい)話しているみたいだった。
彼女は僕のことを完全に年下だと思ったようだ。
年を聞いたら彼女は23歳で僕のほうが2つ上なのだけれど、なんだかいいだせなくて僕はここに泊っている間は年下で通すことにした。
実際はたから見たら彼女のほうが年上に見えるだろうし、別に年上に思われたいわけでもない。
彼女も僕が年下だと思ったから気さくに話しかけてくれたのだろうし、それが嫌ということもない。
ただ僕の男としての部分が情けないぞと声を上げているくらいだ。
自分にそんな見栄のようなものが残っていることに驚く。
でも、僕はこのままでいいと思っているんだ。本当に。
部屋の蛍光灯が瞬いて思考が中断される。
一瞬自分の部屋にいるかのように錯覚してしまったのだけれど、そんなはずはなかった。
自分の部屋にいるように思うなんてどうやら、日常という檻はそう簡単に抜け出せるものではないらしい。
よくよく考えてみれば檻なんてものは何かが抜け出せないように強固に作られたものであるはずで、そうやすやすと破ることはできないものだろう。
それこそ檻を破ることができるのは獰猛な肉食獣や普段はおとなしくても暴れると手がつけられなくなる象みたいな大型の動物だけだ。
もしくは檻を自由に開け閉めできる飼育員か。
僕みたいな小型の草食獣(獣かどうかもあやしいけれど)はせいぜい飼育員から餌をもらえるように日々を単調に生きていくのが精いっぱいなのだ。
僕はそんな考えに至るにあたり絶望というか愕然というかそんな思いに駆られた。
やっとの思いで檻を抜け出したと思ったら、その場所がさらに大きい檻の中だったようなそんな感覚だ。
後いくつ檻を抜け出せば外に出ることができるんだろう。
もうこのまま眠ってしまおうか。朝になればきっと今の重たい気分も少しはましになるかもしれない。
人間なんて意外と簡単にできているから眠るという選択はなかなかいいんじゃないかと思う。
でもその前にお風呂に入ろう。せっかく旅館に来たのだから。


お風呂からあがり部屋に戻ると彼女が布団を敷いていた。
「お風呂どうだった?」
気持ちよかったです、と僕が答えると彼女は宝物を自慢する子供みたいに、にんまりと笑った。
彼女は僕の答えによほど満足したようで上機嫌で布団をメイクする。
手慣れた様子でシーツを敷き掛け布団をかぶせ枕をのせてできあがり。枕を二度ポン、ポンと叩き「よし。」そう言って僕のほうを見る。
僕はそんな彼女の様子を部屋の入口で突っ立ったままで眺めていた。
布団を敷き終えた彼女はすっと立ち上がり、そんな僕の真正面にたった。彼女の背は僕より少し低いくらいでほとんど同じ高さで目線が重なる。
彼女が無言で一歩踏み出した。僕はそれを眺めている。
もう一歩、確実に僕と彼女の距離が狭まっていく。あと一歩踏み出せばその距離がゼロになる。それでも僕は彼女を眺め続けていた。
と、そこで彼女はおもむろに僕の頬に両腕を伸ばし、頬をつまんで思いっきり引っ張った。僕の顔が伸びた。
なにするんですか、と僕は言ったのだけれど引っ張られているせいで、「あにしゅるんえふは。」としか聞こえない。
あはは、と彼女は笑い、
「そんなに見つめられたら恥ずかしいよ。」
そう言いながらも僕の頬から手を離すことはせず、それどころかむにむにと引っ張ったり戻したりを繰り返す。
僕はされるがままでいた。今日初めて会った女性に、それも僕は客という立場であるにもかかわらず、こんな風に接されることを、どうしてだろうか、不快だとは思わなかった。
彼女はしばらくむにむにを続けた後僕の頬を解放してくれたあと唐突にこんなことをいう。
「ねぇ、勝負しようか。」
「え?」
「君が勝ったらこの旅館の三日間の宿泊費はただ。私が勝ったら3倍。どう?やる?」
僕は困惑する。宿泊費が3倍になったところで払えないこともないけれど、別にただになったところでうれしいかといえばそうでもない。
そんなに経営が苦しいのだろうか。
僕があまり乗り気でないのがわかったのか彼女はさらにこんな条件を付け加えてくれた。
「なんと、私に勝てばさらに朝、昼、晩と豪華なご飯付き。さらにさらに、朝はおはようございますのモーニングコール。夜はおやすみなさいまでついちゃうよ。」
なんだかあまりに彼女が必死だったから、僕は勝負をしてもいいかなという気になる。決してモーニングコールとおやすみなさいに心動かされたわけではない。
「いいですよ。やりましょう。勝負の方法は?」
彼女の眼が鋭く光る。まるで獲物が食いついたと言わんばかりの不敵さでにんまりとわらう。先ほどとはまた種類の違う笑みだった。
自分が負けるわけがないと確信しているその様子に僕は少しひるむ。だがまだ勝負の方法を聞いていない。
クイズとかだとお手上げだったけど彼女が口にしたのは、
「びんた一発勝負よ。」
「…なんですかそれ。」
「お互い一発ずつ相手の頬を張って相手が声を出したり涙を流したりしたら勝ち。簡単でしょ。」
「ちょっとずるくないですか。それ。」
「なんで?お互いに公平なルールでしょ。」
悪びれもせず彼女はそういうが本気で僕がたたくことなどできるわけがなかった。彼女もそれがわかっているのだろう。自信がどこから来るのか、つまりはそういうわけだ。
「ちなみに今までの戦績は?」
「42勝3引き分け無敗。」
仁王立ちで宣言する彼女にまた僕はひるむ。けれど大事なことを聞き逃してはいなかった。
「引き分けの場合はどうするんです。」
引き分けの場合というのはつまりどちらも痛みで泣いたり声を出したりしたかその逆、どちらも泣かず、声も出さずのどちらかだ。
「引き分けの場合もそっちの勝ちでいいよ。」
彼女に圧倒的に有利なルール、それくらいは当然だ。
「わかりました。じゃあ僕から行きますね。」
「…意外。てっきり後にするかと思ったよ。」
「いきますよ。」
僕は右腕を高々と掲げ彼女に告げる。
「ちょっと待って、そっちの手でたたくわけ?」
彼女にそう言われて気がついたけれどそういえば右手には包帯が巻かれているのだった。
普通ならけがをした手を使ったりはしないだろう。彼女の疑問も当然だ。
「大丈夫ですよ。すぐすみますから。」
一瞬で済ますつもりだ。問題ない。
「わかった。じゃあ、はい。」
彼女は左頬を僕に向け目をつむった。もう少し違う状況であったなら男の理想とする姿がそこにはあった。僕はそこにめがけて右手を振り下ろす。
ぺちっと可愛らしい音が鳴った。彼女がゆっくりと閉じていたまぶたを開く。なんだか少し怒っている様な気がする。
瞳の奥にそんな光を感じて少しばかりひるんでしまった。
「それでいいのね。」
心なしか声音が先ほどよりも低くなっているような気がする。
何がそれほどまでに彼女の怒りにふれてしまったのかわからないがどうやら僕が手を抜いたことは彼女にとって許しがたいことだったらしい。
僕は言い訳のつもりで言葉を紡ぐ。
「言っておきますけど負けるつもりじゃないですよ。引き分けは僕の勝ちでしたよね。」
彼女の眉間にしわがよる。ものすごく不機嫌な顔。どうしてだろう。
「そんなに自信があるってわけ。」
僕の言い訳は彼女をさらに怒らせただけだった。言い直しはできなそうだ。一度口にした言葉はもう一度口に戻っては来ない。 覆水盆に返らず。
「次は私の番ね。いくよ。」
彼女の右手が僕の左頬に吸い込まれた瞬間、火の中に放り込まれた竹が爆ぜる音が夜中の民宿に響いた。
inserted by FC2 system