ようやく目的の駅につき、一息つく。残念ながら今日は夕焼けの海を見られそうにはない。
僕は駅の中から夕焼け空を眺めることになった。
ここから民宿へ行く頃にはもう日は落ちてしまっているだろう。
空気の澄んだ場所だった。背の高い建物が見当たらないので駅の中からでも遠くが見える。
家もまばらで住宅地らしきものも見当たらない。
こうしてたたずんでいると広い世界で一人取り残されているような気持ちになる。
この駅で降りたのは僕と車掌さんだけだった。
その車掌さんも僕から切符を回収した後にまた電車に乗り込んでいってしまった。
どうやらここは無人駅というものらしい。車掌さんが切符を回収するのを見たのは初めてで驚いてしまった。
そんなに人の来ない所なんだろうか。
もしこの路線ですごくたくさんの人が乗っていたとしたら車掌さんは
「とっても大変だろうな。」
そんなことを思わず口走ってしまうぐらい、ここには人の姿が見えず、静寂だけが満ちていた。
そう、静寂に満ちすぎていたんだ。
「困ったな。」
どうやって民宿まで行けばいいんだろう。
来る途中で場所を調べてみたけれど、駅から歩いて行くと4、5時間はかかりそうだ。
かといってバスも、ましてタクシーなんて走っていそうにない。
僕は覚悟を決めるしかなかった。


歩き始めて3時間ほど経っただろうか。僕は星を見ていた。
日はすっかり落ちてしまっている。街灯も全くないため真っ暗だ。人も車も通らない。
かれこれ2時間ほど僕は星を見ていた。
「抜けないな。」
足が溝にはまってしまっていた。
確かに暗くなりかけていて溝はよく見えなかったし、道の段差につまづいたりもしてしまった。
かなりの勢いで溝に足を突っ込んでしまったことも認める。
でもこんなにきれいに溝にはまってしまうなんて誰が思うだろう。

何度か抜け出そうと試してみたけれど、どうしても抜けなかった。
無理やりにでも抜こうとすれば抜けたのかもしれなかったのだけど、一度手を止めてふと見上げた空がとてもきれいだったから、しばらくこのままでいいかと思ってしまった。
今はとても後悔している。まさか2時間の間に人ひとり、車一台通らないとは思わなかった。
星がきれいだった。それだけが救いといえば救いだ。どこにこんなに光の粒が隠れていたんだろう。
周りに光がないから自分もあの星たちを抱く空の一部になってしまったようだった。
この暗闇が空の延長で、もしかすると僕の隣にも星が瞬いているのかもしれない。
そんな風に思わせる、満点の星空というのは今僕が見ているような空のことを言うんだろう。
振動音がする。なんだか水を差された気がして横を見ると小さな星が瞬いていてびっくりした。
僕の携帯だった。つまづいたときにポケットから落ちたのかもしれない。
そうか、携帯で助けを呼べばよかったんだ。こういうときは警察だろうか。それとも救急車?
振動が止まる。携帯を手に取り確かめると不在着信が一件。知らない番号からだった。
再び携帯が振動を始める。同じ番号からだ。
不意をつかれて思わず携帯を落としてしまったけれど、なんとか電話に出ることはできた。
「はい。」
「あ、お客さん?よかった。つながって。ずいぶん遅いですけど何時頃つく予定ですか?」
「えっと、その、ち、ちょっとトラブルがあって。」
民宿のあの女の人だった。ちょうどいい、僕は事情を説明して助けにきてもらうことにした。
説明を終えて場所を伝えたら「じゃ、すぐ行きますから。」そういって彼女は電話を切った。
切り際に「おかーさーん!お客さん溝にはまったらしいから迎えに行ってくるねー。」という元気な声が聞こえた。
最初に電話した時と感じが違って笑ってしまった。
対応が手慣れていたので、よくあることなんじゃないかと思ってしまう。
「そんなわけないよな。」
なんだか彼女がやってくるのが待ち遠しかった。


しばらくしてまた携帯がふるえ始めた。民宿からの番号ではなく、登録された番号でもない。
「もしもし」
「あ、お客さん。そろそろ着くと思うんだけど。」
出てみると彼女だった。どうやら自分の携帯からかけてきているらしい。
あたりを見回してみると確かに遠くのほうに自動車のヘッドライトらしき光が見えた。
「はい。車の光が見えます。」
「ほんと?よかった。じゃ、電話切らずに走るから近づいたら教えてくださいね。」
会話をしながら彼女がこちらへ来るのを待つ。
僕は民宿「愛穂」のことを聞いてみたら、逆に聞き返された。
「お客さんはなんでこんな田舎の民宿に来ようと思ったんです?」
ポスターをみて決めたと答えると彼女は電話の向こうで少し笑いながら、ポスターまだ貼ってあるんだ、とつぶやいたあと、あのポスターは鉄道会社にいる親戚が貼ってくれているんですよ、と説明してくれた。
「あ、もうかなり近いです。」
車が近づいてきていたのでそう伝える。
「んー、いたいた。お客さん発見。電話切りますね。」
電話が切れ、白い軽自動車が僕から数メートル離れてとまる。
車のライトはつけたまま懐中電灯を片手に彼女が下りてくる。
「大丈夫です?」
「どうも、わざわざすいません。」
僕の足のあたりを懐中電灯で照らしながら
「あはは。完全にはまってますね。ちょっと待っててください。」
きれいな人だった。暗くてはっきりとは分からなかったけれどヘッドライトに照らされた横顔はすごく理知的な印象を受ける。
年齢は・・・どれくらいだろう。僕より年上ってことはないと思う。彼女が抜け出すのを手伝ってくれているのをぼんやりと見つめていた。
「よいしょっと。じゃ、抜いてみてくれます?」
「はい。」
すっと意外なほどあっさり足は抜けた。二時間もこの場にとどまっていた僕がなんだかバカみたいで、恥ずかしかった。
コツがあるんですよ、と彼女は笑う。彼女も溝にはまったことがあるんだろうか。
「この辺は真っ暗だしこんな溝もたくさんあるから出歩くときは気を付けてくださいね。」
はい、と彼女の手が差し出される。僕はその手を借りて立ち上がった。
少し土で汚れていたけれど全然不快だとは思わない。なんだか温かかった。
立ち上がり、足の調子を確かめる。特に違和感は感じなかったからどうやら折れていたりはしないみたいだ。
「ありがとうございます。助かりました。」
彼女は僕の手と顔を交互に見て
「すっごい冷えてますよ。早く行きましょう。」
そう言って白い息をはいた。
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