「あ、すいません。」
「・・・いえ。」
ぼうっとして歩いていたら通行人にぶつかってしまった。
買い物帰りのおばさんだろうか、視線を何度か上下させいぶかしげな表情で僕を見た後そのまま通り過ぎて行った。
季節は冬。今年は例年より花粉が多いらしく道行く人の多くが口をマスクで覆っている。
僕は幸運にも花粉症とは無縁の生活を送っているためそのつらさはよくわからない。
友人の多くも花粉症だからいつも鼻をかんでいたりするのを見ると大変だなと思うぐらいだ。
風が吹く。周りの人は体をちぢこめて帰路を急いでいる。僕もそれにならうことにした。

「ただいま。」
家に着く。当然のように部屋から出迎えの声はなく僕の声は小さな部屋に吸い込まれて消える。
電気をつけると切れかけた蛍光灯が何度か瞬いたあとまだ大丈夫とでもいうように部屋を照らし始める。
いつも出かける前に買ってこようと思うのだけれど結局買いそびれてしまう。
きっとこの蛍光灯は完全につかなくなるまで僕の部屋を照らし続けることになるんだろう。
ふぅっと息をはきコートを脱ぎ椅子に掛けた。テレビをつけようとして自分の手から血が流れていることに気づく。
血はすでに乾いて固まっていたけれど手の甲から流れたそれは指先まで伝っていて遠目から見たら片方の手だけ赤い手袋をしているように見えたかもしれない。
さっきのおばさんはこれを見ていたのだろうか。
「ああ、またやっちゃった。」
ひとりごちた後、流しで手を洗って血をおとす。傷は思ったより深かった。
消毒した後ガーゼをあて、包帯を片手でまいた。僕にとってはもう慣れた作業。
「よし、今回もうまくできた。」
自分で自分をほめておく。
けがをした後のおまじないのようになってしまったけれど手当がうまくいくとなんだか不思議といい気分になる。
逆にうまくできないとこれからなにか悪いことがあるんじゃないかという不安に駆られる。
けがをした時点でもう悪いことなんだろうけど。
包帯を巻いた右手を掲げて開いたり握ったりして感触を確かめてみる。
問題なし。
左手でぽんぽんと右手をたたく。
けがをしたところを手で二回たたく。これも癖みたいなもので自分の中での決まり事だ。
本当はやってはいけないことなのかもしれないけど。
問題はなかった。

改めてテレビをつける。ニュースの音が流れ始め遅れて画面がついた。
やっているニュースはまたどこかの政治家が失言をいったとか、まだまだ不況は続きそうだとか、暗いものばかり。
ここのところ同じような内容のニュースばかりが流れている。
ただぼうっと眺めているうちにニュースは終わり天気予報が始まっていた。
予報によれば明日は晴れるらしい。また花粉が飛ぶようで花粉症の方はマスクを忘れずにとのことだ。
僕には関係ないことだけど。
「よかった。明日にしよう。」
明日、僕は旅に出る。
テレビを消し、今日はもう眠ることにした。


ふと目が覚める。時刻は午前4時。まだ起きるには早い時間だ。
ベッドから出る気にはとてもなれずそのまま目をつむっているといつの間にか再び眠りに落ちていた。

朝が来た。僕の部屋は東向きで朝日がよく入るからまぶしさで目が覚める。
最初はこれがいやでカーテンを引いていたけれど、この天然の目覚ましの効果は抜群で最近はカーテンを開けて眠ることが多い。
今回もやっぱり快適な目覚めというわけにはいかなかったけれど目が覚めたことに満足してテレビをつけ天気予報を確認する。
昨日の予報通り一日中晴れとのこと。
僕は身支度をととのえ、朝食をとり、家を出た。
カチャリと家の鍵を閉める。
「蛍光灯変えないとな。」
家のドアのぶを見つめながらそんなことをつぶやく。どうせ買ってくることはないのだろうけど。
それに今日は家には帰らない。どこか遠くへ行きたかった。行先は特に決めてはいない。

駅に向かって歩いて行く。これだけが今日決めていた唯一の道。
僕の日常から外れない、ただこの道だけが。
僕はこれから道を外れようとしている。
旅立ちの朝はもっと清々しいものかと思っていたけど、いつもと何も変わらなかった。
晴れていても冬の朝はみんな寒そうに体をちぢめているし、マスクをして分厚いコートを着ている。
いつもと変わり映えのしない光景。日常化した光景。
今道を歩いている人のほとんどが、日常を生きている。
僕はそこから外れようとしている。ちょっとした非日常へ踏み出すことで、何かを感じたいと願っている。

考え事をしているうちに駅に着いた。ここまでは決められた道。ここからは、違う。
券売機に並び僕の後ろにも人が並んでいく。
一人、二人、三人、僕の前に並んでいた人たちが切符を買って列から抜けていく。そして僕の番が来た。
券売機の前に立つ。お金を入れようとして、ふと手が止まる。
僕はどこへいけばいいんだ?
日常から外れようとしていきなり僕は立ち止まってしまった。僕はまだ日常の中にいた。
惰性で券売機に並びそして僕は何をしようと、どこへ行こうとしていたんだろう。
「ちっ。」
後ろから舌打ちが聞こえた。まずい。
「すいません。」
切符を買うのをあきらめた僕は次の人に順番を譲り離れることにした。
「買わねーんなら、並んでんじゃねーよ」
後ろから僕を罵る声が聞こえる。僕は聞こえないふりをして足早にその場を離れた。

どうしよう。駅の入り口近くの柱にもたれかかって僕は途方に暮れる。
何もしなくても時間は進んでいく。5分、10分。
日常を抜け出したかったのに順調に進めたのは駅までの決められた道だけで、その先は何も変えられていない。
切符を買おうとしてから20分が経ったころ、ふと顔をあげると向かいの柱に貼ってあるポスターに気がついた。
―民宿「愛穂(あいほ)」海の近くでゆったりしませんか。
「海か。行ってみようかな。」
どうして今まで気づかなかったんだろう。そのポスターには鮮やかな夕焼けの海が広がっていて、とても目につくものだったのに。
僕はポスターに書いてあった住所と電話番号をメモしその場所に行くことにした。

駅の改札を抜けホームに出る。どうやら民宿はかなり遠くにあるらしい。
電車を何度か乗り継がなければならないようで時間もかかりそうだったけど、あのポスターみたいな夕焼けの海が見られればそれでいいと思っていた。
今からならちょうどいい時間につけるかもしれない。
別に今日みなくちゃいけないわけではなかったけれど、今日見たいという思いはあった。
電車がやってくる。
ここから、やっと僕の非日常は始まった。

3回電車を乗り換えて今は5本目の電車を待っている。次の電車は30分後。
さて、どうやって時間をつぶそうか。
「本でも持ってくればよかったな。」
家から持ってきたものは着替えとけがをした時のための救急セットくらいで準備万端というわけではなかった。
荷物が増えるのは嫌だったし、足りないものは買えばいいと思っていたけれど、思っていたより簡単なものではないと実感する。
「そういえば・・・。」
思えば海へ行こうと決めたはいいものの、そのあとのことを全く考えていなかった。
「民宿「愛穂」だったっけ。」
今夜の宿の予約をするために電話をかけてみる。当日でも予約ってできるんだろうか。
時間はあるし、だめもとでもかけてみよう。
携帯を開いてポスターに書いてあった番号に電話をかける。
「お電話ありがとうございます。民宿「愛穂」です。宿泊のご予約ですか。」
数コールの後に電話がつながる。
若い女の人の声がして少し意外だった。
民宿というともっと年配の方が経営しているイメージがあったから。
「えっと、はい。そうです。あの、今日泊まりたいんですけど空いてますか?」
「今日ですか?素泊まりなら大丈夫ですけど。滞在はいつまでの予定ですか?」
「とりあえず」
少し考えた後結局、
「今日から三日間ほどお願いできますか。」
僕はそう答えた。
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